常楽だより
2025/03/02
仏壇に願い事
仏壇に願い事?先日「仏壇に願い事をすることは良くないですよね」との質問に「その通りです」と即答してしまいました。仏壇とは古代インドでは、土を高く盛った場所に神を祀り神聖な場所としたそうです。「壇」は、この土を盛った場所に由来することから土偏が用いられます。仏壇は、文字通り仏様、厳密には御本尊をお祀りし礼拝する場所です。礼拝とは仏菩薩の前に低頭合掌して恭敬することですから、御本尊に帰依し、教えを受け日々の生活に実践することを誓い、自らを顧みる場所が仏壇となります。仏壇に願い事をすることは本来の趣旨とは異なると言えます。
一方で人々が仏神に対して願望を成就するために心を込めて祈り求めてきたことは、願掛け、祈念、祈願、祈祷といった言葉が神社仏閣で頻繁に用いられることからも明らかです。現世の願い、未来世への願い、個人的な願いもあれば、世界安穏などを祈る外向的な願いなど多種多様です。私自身も朝勤で国家の安寧や檀信徒の健康を祈り、さらに家族の安全を願っています。
日蓮聖人も幼少期に仏法の奥義を知るために「日本第一の智者となし給へ」と虚空蔵菩薩に願を立て、伊豆流罪時に は地頭伊東八郎左衛門の病悩を祈り入信へ導いたことや、悲母の病を祈って寿命を延ばしたことなどが伝えられています。また、檀越には護符や御守りを授け、厄除けの祈願も行ったとされています。
そもそも仏教が六世紀半ばに日本に公伝した際、当初の大きな役割として「鎮護国家」を担っていました。『仁王経』『金光明経』などの経典では、国王や人民が経を受持し読誦することで災難を除き、国家を安泰に導くと説かれています。日本では『仁王経』『金光明経』『法華経』を「鎮護国家の三部経」と称し、宮中や寺院において国家安泰を祈る法会が盛んに行われてきました。天台宗の最澄や真言宗の空海も鎮護国家を掲げ、その教勢を伸ばしてきた背景があります。
ただし、日蓮聖人の「立正安国」の思想は、国が仏教を鎮護国家のための手段として利用する考え方とは異なります。仏教を単なる手段として用いると、願いが叶えば不要となり、叶わなければ捨てられる存在になります。そうではなく正法(法華経・題目)を立て、法華経信仰を根本にした社会の構築を目指すことにより万民・国が安穏になる、教え主体の法主国従の姿勢で貫かれているところに特色があります。また「釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」と日蓮聖人がおっしゃるように、題目を信受し持続することにより自然と功徳がもたらされるのです。
歴史を踏まえると「願い事をしてはいけない」と言い切ったことは少々極論だったと反省しています。人間の弱さから一縷の望みを託して仏壇に手を合わせ、願い事を祈ることもあるでしょう。ただし、一時的な祈りだけで終わらせるのではなく、法華経信仰を日々の生活に継続的に実践する中にこそ、安穏があることは忘れてはいけません。その意味でも、仏壇は単に願い事をする場所ではなく、信仰を深め、確かなものにしていくための場所であると考えます。